損するギバーがなくすもの【144】

おまけ

【おまけについて】
この一件以来前向きにコーチングに復活できたので、なんだったんだろう…と不思議でした。自分では、期待(依存)する相手が「他者→自分」に切り替わったのかな?と考えています。

私が一緒に行く

自分に対して優しい言葉をかける…なんて言えばいいんだろう?と考えたゆきみち。「辛かったよね」「泣かないでね」といった慰めの言葉は何か違いました。
幼い頃の私にとってそういった言葉は「馬鹿にされている」「笑われている」の象徴で、響かないからです。

55話より

では目の前に、転んでしまい家族を恨む5歳の私がいて、大人になった私がかける言葉は?

私が一緒に行く。バスは何度でも乗れる。

これでした。
幼い頃は世界が狭く、わからない事がたくさんあります。大人の事情で教えてもらえないこともあります。でもバスは本当は何度でも来るし、遅れても大した問題じゃありません。なんなら他の交通手段でどこでも行けるし、好きなものも買えます。

これは大人になり、色々な意味で自由に動けるようになった私だからこそ言える言葉でした。
同時に

誰が私を置いて行ったとしても、私は私を置いていかない

と自分に約束しました。
その言葉をかけた瞬間、心の中がスーッと軽くなり

ゆきみち
ゆきみち

そうだよ、何度でも自分のためにやればいい

と思え、コーチングに復活することができました。

メタファーに気づく

ここからは現在の私の考察です。
私にとってバスに乗り遅れるという事は、挑戦に失敗すると言うことのメタファーだったのではと考えています。※メタファー…例え、隠喩 

私は完璧主義が強く、挑戦がうまくいかないとできなかった自分に腹が立つし、なんだか周囲に馬鹿にされ、置いていかれる気がしてしまいます。同時にできなかった自分を強く責めてしまいます。バスに乗り遅れた時の私の感情そのままです。

でも、この一件を通して

バスは乗り遅れても大丈夫、何度でも来る
=挑戦に失敗してもいい、機会は何度でも来る

高速に乗って好きなところに行ける
=方法はひとつじゃない、自分の自由にできる

親が私を置いて行っても私は置いていかない
=他人が私をどう扱っても、自分は自分を励まし続ける

と自分自身に伝える事ができたのではないか?と考えています。

なお漫画で描いた
私を幸せにするのは家族や母(Sさん)ではなく、私である
というのは、周囲は必要ない!私は私の意見しか聞かない!という排他的な意味ではありません。(であればコーチングは辞める結論になりますからね)

周囲がどうであれ、私は私を激励し続ける

という意味です。
他人は自分の思うようにはなりません。ネガティブな感情が生まれることも止められません。だからこそ自分は何があっても一生自分の味方、応援団になりたいと思ったのです。

なお今でも、物事がうまくいかず自分を責める行動は生活の中で現れます。でも『ああまた出た』と気付き『次のバス(機会)が来るまでちょっと待ってみるか』と自分に声をかけ、落ち着けるようになりました。結果、とても生きやすくなったと思います。

だんな
だんな

続く